DE ROSA JAPANスタッフによる、自宅から職場までの自転車通勤、その途上でみつけた「昭和的」なモノやコトの小さなお話。第3回目は「足立区に堕ちた超空の要塞」。
平成生まれの若い人にはピンとこないかもしれないが、昭和40年生まれの自分は、先の大戦で日本が敗戦してから20年後の生まれだけに、両親を始め、戦前戦中、そして戦後を経験した人々が周りに少なくなかった。なんとなくだが、日本が世界を相手に戦争をして、敗戦を経て奇跡的な復興を遂げたなかにも、昭和40年代は未だ、戦争の傷跡がどこか、社会にはびこっていた記憶が幼心に残っていた。本稿の1話にも書いたが、自分の父親は戦争で兵士として戦った経験があった。17歳で日本海軍に入隊、通信兵として南方のラバウルに派兵され現地で終戦を迎えた。
父が他界する前にこんなエピソードを聞いたことがある。
終戦間際に内地(日本国内)で通信兵が不足したことで、父の友人でもあった戦友がラバウルから横須賀へと呼び戻され通信士の任に就いた。昭和20年に入ってからの話だそうで(終戦は昭和20年8月15日)、その当時はグアムやテニアンから飛来した“Boeing B-29 Superfortress”の無差別爆撃により、日本各地の都市は灰燼に帰していた。この頃になると、アメリカ軍は戦略的にプライオリティが下がった南方諸島日本軍基地への攻撃は二の次として、日本本土各地を標的としたわけだ。そんな内地の状況は、暗号無線を通して南方の日本基地にも伝えられ、これを当時の父が受信していたという。そんなある日、日々の暗号電のなかに、父と横須賀に戻された戦友しか知らない符号的なものが挟まれていたため、送信と受信をした者が戦友同士とわかり、以後、平文(暗号なしの文章)で横須賀の友人は内地の状況を父に知らせていたと聞いた。平時であれば軍法会議ものであっただろうが、現場の少年兵のたわごとに構う余裕は、当時の日本軍にはなかったのであろう。
さて、話を現代に戻そう。自分がDE ROSA 838で自転車通勤を行うルートのひとつに、79年前に飛来したB-29の一部を見ることが出来るスポットがある。驚くことに、いつでも、だれでも、なんどでも、みることができるのだ。
自分は自転車通勤のルートを、主に3本の幹線ルートから選んで使用する。時間帯や天候、気分でその日のルートを変える。埼玉県草加市の勤務地と千代田区神田の自宅を結ぶルートのなかで最も西寄りのルートが、今回主題の「尾久橋通り」である。尾久橋通りは基本的に片側三車線で道幅も広く、いちばん東寄りの日光街道(国道4号線)に比べてはるかに自動車の交通量が少ないので安心して走れるルートであり、この道路を走行中は頭上の高架を走る新交通システムの「日暮里・舎人(とねり)ライナー」が短い旅のお供となる。今回のスポットは尾久橋通りの舎人駅付近。尾久橋通りを西側に少々外れた住宅街にある。住所は東京都足立区入谷となるが、東京23区内にもビニールハウス栽培などの畑が点在する地域がある。
幹線道路の尾久橋通りを外れると、あたりは静寂に包まれる。5~600mも走ると、こんな風景が飛び込んでくる。高層ビルは皆無で、マンションも少ないので夜空も高く、広い。ビニールハウスではなにを作っているのであろうか。どこにでもありそうな道、ごくふつうの小さな十字路が今回の目的地。そこが今宵のみちくさスポットだ。
おそらく、目的をもってこのスポットを訪れないことには、誰もが通り過ぎてしまうだろう。それは周りの風景に溶け込み過ぎてしまっているのだ。838の前輪の向こう側、鉄柵の内側にある大きなタイヤは、農耕器具のものではなく、79年前、昭和20年5月26日、足立区入谷に墜落した超空の要塞、B-29のタイヤそのもの。
B-29には主翼下の主脚と前脚を合わせて6本のタイヤが装着されていた。このタイヤがどの部分に使われていたか分からないが、グッドイヤー製のタイヤで(小さなロゴがある)独特なダイヤ型のトレッドは上の写真と同じだ。足立区でみたタイヤの率直な感想は、墜落から79年も経ったものとは思えないくらいしっかりとしている。
昭和20年の5月26日。日本軍の迎撃機か、高射砲か、はたまたエンジントラブルか、理由は分からないが、このタイヤが装着され、グアムかテニアンの飛行場を飛び立ったB-29が火を噴きながら足立区の下谷地区に墜落。上空500mくらいで爆発、四散したらしい。詳細は不明だが、地元の方が部品をかき集めたなかにこのタイヤが含まれていたようだ。現在の地主さんがどのような意図があって、何のために79年前のアメリカ製重爆撃機のタイヤを埋めてあるのかは不明だが、ここを訪れるといろいろと考えさせられる。特に自転車のような平和な乗り物だから感じ入るのかもしれないが、当時のアメリカの搭乗員たちは、軍の命令とはいえ日本国民の殺害を目的に焼夷弾を落とすために超空の要塞と呼ばれた巨大な飛行機に乗って飛来した。しかし彼らは祖国に帰ることもなく、B-29のタイヤも二度と基地の滑走路に降り立つことはなかった。そしてこの墜落で確かなことは、11人の搭乗員全員が亡くなったことだ。むろんB-29によって同胞が大量に殺害された事実は変わらないが、戦争とはなんともはかないものか、その出自を知っていれば、古ぼけた巨大なタイヤをみて考えさせられる人は少なくないと思う。足立区のとある十字路に存在する戦争の傷跡。そこにこのタイヤがなぜあるのか、案内板のひとつもないことは、戦争の悲惨さや争いごとの無意味さ、命の大切さを個々に考えてもらうための、地主さんの意思なのかもしれない。ただひとつ、本稿の寄稿にあたり知ることになった情報があり、これに救われた。戦後、地元の人々によって墜落で亡くなったアメリカ人搭乗員のお墓が作られたという。(現在は銘碑のみが足立区郷土博物館に保管されている)
機会があれば訪れてみてください。
本稿おしまい(ネタを仕込めれば復活します)